独話的対話

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読書する人としない人

今回は僕の好きなものについて喋りたいと思う。つまり読書だ。

僕個人について少し話すと、昔からの本好きだった。幼稚園から中学までは毎日のように読んでいたし、今は創作も含めて文章を書くようになった。
少なくとも、それが僕の土台になっていることは間違いないだろうし、僕の土台といえば「考える」ことである。

とりあえず、ひとつの問いを立てたい。「読書する人としない人の間にはどのような違いがあるのか」

例えば、僕の知る(地)頭のいい人は大抵、というかほとんど全員日常的に読書している気がする。じゃあ、読書している人は全員頭がいいのかというと、多分そうではない。もしそうならもっと読書も奨励されているだろう。

しかし、もちろん読む本にもよるが、読書というのは考えなしにはできない行為である、とも思う。
僕は、本を読むことで、よく作者と対話している気分になることがある。それは創作でも啓発本でも、「よい」ものは自分に訴えかけてくるものがあるし、作者の想いがひしひしと伝わってきたり、逆に「なぜこういう書き方をしたのだろう」と想像を膨らましてくれさえする。
同時に、本を読む、という行為はひとりの時間を作り出す。近年よく言われている「生きづらさ」のひとつの原因は、ひとりの時間の減少、消滅にあるのかな、と感じることも多い。教室で勉強して、習い事に通って、友達と遊んで、すべて大切なことだと思うが、人間、それだとキャパオーバーになるのではないか?(わからないけど。)教わったこと、感じたことを咀嚼するのは自分との格闘だ。優しい社会だからこそ、ひとりにしてくれなくて、かえってお節介になっているのかもしれない。


話が逸れたが。読書する人としない人に、結局法則性があるのかと言われれば、たいしてないのかもしれない。イメージは真面目そう、とかあるけど(パリピは果たして本を読むのだろうか)、「頭の良さ」という正体の見えないものにそって考えたのがよくなかったのかもしれない。
ぶっちゃけると、この文章を書き出したのが1ヶ月前で、ずっと放置していたため、何だか支離滅裂になってしまっているのだ。それも含めて僕のブログ、だと思ってるのであえて書き直していないのだが。
結局言いたいことは、本を読んでほしいし、僕ももっと読まなくちゃいけない、ということなのだろう。そしてそれは、「読めばわかる」類いのものなのかもしれない、ということだろう。