独話的対話

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僕が間違っていたこと、勉強することと考えること/意識高い系と政治と分かりやすさ、自負

 どこかで聞いた話、20代後半までに自分の考えの方向性が明確になればよいらしい。何によいのかは忘れたけど、とにかくよいらしい。それは逆に言えば、20代後半までは自分の考えがブレても構わないということだ。手のひらクルックルでもオッケーなのだ。ということで、8ヶ月前の自分に異論を唱えながら昨年の色々を振り返ってみたい。

 

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  ↑は僕のいちばん最初のブログだ。まあおおかたは今の僕が思っていることで変わっていないのだが、以下の文章。

例えば、小学校で毎年の長期休みに読書感想文と習字の宿題を課されたり。

例えば、中学校で頭髪や服装について厳しく指導されたり。

例えば、高校で全く興味もないのに数学を学ばされたり。

みたいなことをどうやら書いていたようだ。うーん……割と身近な高校の例から話したい。

  数ヶ月色々と考えたことの中に、そもそも(学校の)勉強って、「役に立つ」「必要である」「意味がある」というような物差しで測れるようなものなのだろうか、ということがある。これにはいろいろな意味があるけれど、例えば勉強で学んだことって、それを使うかどうかだけじゃなくて、その問題を解くための能力が備わることも大事だったりする。例えば、数学っていう教科を通して、論理的思考力を身に付ける、とか。また、実際の研究結果として、ひとつの教科が得意な人より、全教科そこそこできる人のほうが学業成績も伸びやすいらしいらしい。意外と、何かひとつできればいい、ってわけではないみたいだ。宿題の例も、例えば自分の感想を文字にして伝える、というのはけっこう大事だったりする。

 頭髪とか服装とかは、中学の先生は「意識の乱れは服装の乱れから始まる」とか言ってたし、大学生とか意識とか生活習慣が散々な人(僕も含めて)多いし一理あるかもしれない、とか思い始めた。むしろそれより、本当にそんな相関があるのかないのか、個人の経験則だけで語るんじゃなくて、実際にデータ取るまでは一概に否定も肯定もできないんじゃないの?ということであり、教育は生身の生徒を扱うわけだから、条件整えて実験、みたいなこともできない。せいぜい成功例とか失敗例をかき集めることぐらいだし、それを勉強することくらいだろう。

 こう考えると、個人の頭で考えられることには限界があるな、と感じ始めた。僕が考えていることはほとんどすべて誰かが考えてきたことだし、議論し尽くされたことで、そこに僕の入り込む余地はない。宿題だってどのくらいの量をどのように出題するのが適切なのか、とかも、僕が長年かけて至高の分量を見つけなくても、誰かが見つけたものを共有して改良すればよい。実際に教育界にそういった動きはある(気になる方は「フォレスタネット」とググってみてください)。勉強の意味、効果とかについても、形質陶冶とか実質陶冶という言葉で既に説明され、学問化されている。

 じゃあ最初から全部考えずに勉強だけしたほうがいいのか?というともちろんそうでもなくて、その理由はいくつかあるかもしれないけれど、それは結局僕らが人間で、(少なくとも今の)AIには持ち得ない創造性を持っているから、だと思う。今はまだAIも発展途上だけど、そのうち人間にしかできないことはほとんどなくなるだろう。その中で人間にしかできないこととして最も可能性が高いことが、自ら考え、新しいモノ、考えを生み出すことではないだろうか?という流れで、結局僕は人間の根本は考えることにあるなあという結論に(現時点では)戻ってきた。

 

 ここからはまた別の話。

 ツイッターを見てると、本当に世の中には文章を読めない人がいるんだなあ、と愕然とする。でもそれって、前々から僕の言っているバイアスがかかっている場合も多い。特にそれが顕著なのが政治だ。僕の知る政治に関連したアカウントの9割以上は極端に左右どちらかに偏っていて、左はアベさんをこれでもかと罵倒するし、右はそういう人たちをありったけバカにするし、おいおいちょっと待てよ、とりあえず客観的に話そうぜって思う。少なくとも僕はアベさんがすべて正しいとも、すべて間違っているとも思わないし、「アベの今回の災害対応はよかった」って言う左とか「水道民営化はやったらあかんやろ」って言う右とか、それがむしろ普通じゃない?って思う。現実って常にそういうグレーに位置していて分かりづらいから、ついつい一筋縄で説明できてしまうものに頼りがちだ。アベさんのやってることを全部非難する、というのもその一つだと思う。でもそれじゃダメなんだと思う。100年以上前にアウフヘーベンとか言われてるんだから、まだその領域に留まってちゃダメだろって。本当に僕らがすべきことは、答えなんて用意されていない、解決不可能かもしれない数多の問題に対して、真摯に向き合って意見をぶつけ合って、議論を尽くして得られたベターな答えのようなものを信じて、同時に疑って、この作業を地道に、永遠に繰り返し続けるという、本当に気の遠くなりそうな、無謀なことだけれども、それをやることが自分ひとりの世界でなく、この共有された世界に生きるということではないだろうか?これは前回の記事での僕の提言と共通するものだ。

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もしかしたら人類の脳のレベルではこの辺が限界なのかもしれないけれど、僕は人間が大好きだし、人間を信じて生きていたい。本気出せよこんなもんじゃないやろって言いたい。

 話が少し広がりすぎてしまったかもしれないけれど、ここで俗にいう、意識高い(系)について話をしたい。ここでは「系」のあるなしの違いの話はしないが、実際にこういう人たちと会って話して、気付いたことが2つある。1つ目は、上記のような政治の話をする人がほとんどいない、ということだ。これが何を象徴するのかというと、「議論をしない」ということだと思う。議論って往々にして対立するし、むしろ対立しないなら議論なんて必要ないだろう。2つの異なる立場があって、どちらも正義だから譲れない部分があって、譲りたくない部分もあって、その中でなんとか妥協し合って説得し合って、よりよい結論を出そうとする、それが議論だろう。政治だってそうだ。もちろん全員が賛成するようなものもたくさんあるだろうが、時間がかけられ、議員が内外に必死に訴えるものは、そういう議論的なものだ。そこにはイデオロギーも存在するし、ツイッターなんかを見ているとイデオロギーが論理性をはるかに超えてしまっているものもある(陰謀論などはほとんどそれだ)。しかし、意識高い(系)にはイデオロギーが感じられない。決して論理が破綻しているわけじゃないので、前述の陰謀論よりよっぽど善良だし、むしろ若いうちに起業する、というのは勇気も根気も努力も必要な大変なことだし、素晴らしいことだと思う。でも、僕はずっと違和感を感じていた。何と言ったらよいかわからないのだが、本当にこれでいいのだろうか、という、ささいな不安だ。僕は直感(直観?)を大事にしたいと思っているので、ずっとこの気持ちを抱えたまま数ヶ月を過ごした。最終的に僕がたどり着いたのは、要するに彼らは「簡単すぎる」ということだ。先ほど述べたように、議論とか、ひいては人生ってそんな簡単なものじゃなくて、めちゃくちゃ地道で大変なことだ。それを、「やりたいことやれば?」とか「好きなことで生きていく」とか、そんな簡単に表されてたまるか、そうじゃないだろ、っていう違和感だったんだと思う。

 そして同時に、僕はこんなやつらとは違う、僕はこの世界に、言葉を交わし合い、必死に考えることで真摯に向き合っているんだ、という自負が生まれてきた。以前僕がそうなりかけた(なった)、というのも含めて、僕は意識高い(系)というものを斜に構えて見るようになったし、あんたらのやり方ホンマに合ってんの?って問いかけ続けないといけないんじゃないか、と考えるようにもなった。


 そして現在に至るわけだけど、付け加えるとしたら僕は音楽をやってたり、昔かかった病気の後遺症だったりで、何かを破壊しないと気が済まなかったりするので、そういうのも影響としてはだいぶ強いんだろうけど、ってくらいだ。ちょっと長くなりすぎて、しかも校正とかめんどくさくてほとんどしてないから読みにくいとは思うけど、ここまで読んでくださった方々、本当にありがとうございます。このブログは続きますので、ちょくちょく見ていただけると嬉しいです。