独話的対話

モノログを通じてダイアログへ 不定期更新

「独話的対話」の限界

 個人的な話ではあるが、ここ2ヶ月ほど、自身の考え方に大きく影響を与えるような出来事がいくつかあった。いずれも僕にとっては喜ばしい出来事なのだが、自身のキャパシティの低さゆえ、まだこれらの出来事を受け止め切れていない。その影響もあって今はTwitterのアカウントをほとんど動かしていないのだが、事態はますます悪化しているというか、一度固まりかけた自分の考えが何度も揺さぶられ続けている。
 そんな中でひとつ感じていることが、当ブログの題に掲げている「独話的対話」という発想そのものが失敗であったのではないか、ということである。

 僕は当ブログにおいて、また実生活においても、「真摯」という言葉をキーワードにしていた。自分の心の中で、どこか引っかかる、違和感のあるものに対して、目を背けずに、つらかろうが途方もなかろうが向き合い続ける、そういった態度によってしか、僕の求めるものは生まれ得ない、そう思っていた。この発想は、僕の人間に対する根拠のない信頼感から生まれていたのだと思う。ちょうど1年ほど前の記事である。
believe666.hatenablog.com
 >本当に僕らがすべきことは、答えなんて用意されていない、解決不可能かもしれない数多の問題に対して、真摯に向き合って意見をぶつけ合って、議論を尽くして得られたベターな答えのようなものを信じて、同時に疑って、この作業を地道に、永遠に繰り返し続けるという、本当に気の遠くなりそうな、無謀なことだけれども、それをやることが自分ひとりの世界でなく、この共有された世界に生きるということではないだろうか?
 >もしかしたら人類の脳のレベルではこの辺が限界なのかもしれないけれど、僕は人間が大好きだし、人間を信じて生きていたい。本気出せよこんなもんじゃないやろって言いたい。

 この夢想的な信頼感は、昔好んで読んでいた作家の影響だと推測してはいるのだが、いずれにせよ恐らく僕の中高生時代から培われてきたものである。もちろん、僕が言いたかったことは、全ての人間に性善説が適用されるといったようなことではなく、人類は無限の可能性を秘めている(そしてそれに良くも悪くも大きく影響を与えるものこそが教育である)ということである。しかし、これが根底から覆されようとしている。

 僕は最近ようやく、自分がいかに恥ずかしい振る舞いをしてきたのかを思い知った。例えば大学生活で、例えば家庭内で、例えばTwitterで。いくつかは改善されつつあるものの、いくつかは直せないでいる。もしかしたら表面的に隠しているだけで、根底の部分は何も改善されていないかもしれないが。そして、このことに気づいたのは、自分の力によってではなく、自分の周囲にいる人たちのおかげである。特に、僕に直接声をかけてくれた方々には本当に感謝しているし、とても申し訳なく思っている。
 僕は「真摯」という言葉に沿って生きようとしながらも、真摯になることはできなかった。目を背けないと言いながらも、理由を作って目を背けてきた。解決の困難な、世界的な問題を相手取ろうとしていたつもりが、自分自身の身の回りさえおぼつかないという現実を突きつけられた。

 当たり前の話だが、人間は自分自身に対して客観的な態度をとることができない。「客観」とは一義的に他者による認識のことを指すからだ。客観的と思われる基準を自己に課すことは可能であるが、想像上の「他者」を作り上げたとしても、それは自己の想像の範疇を超えない。そして、人間ひとりの想像力には限界がある。
 少しだけ具体例を出したい。僕は今まで、ファッションに全く興味がなかった。もともと美しいものに対する興味が薄かったのもあるが、僕には他にやりたいこと、やらなければならないことがあって、ファッションなんかにうつつを抜かしている暇などない、時間もお金もかけたくない、という考えていたからである。本気でジョブズスタイルに憧れていたし、簡単な身だしなみさえおろそかにすることが多かった。しかし先日、「ファッションに無関心でいることにそこまで固執しなくてもいいんじゃないか?」という旨の話を知人から受け、自分の考えが大きく変わった。どうせ収穫逓減の法則みたく、そこまで時間を割いたからといって比例した分の結果がついてくるわけではない。それよりかは、生活に必要なものに少しずつ時間とお金を割いた方が、視野だって広がるだろうし、ファッションを「捨てる」必要性は低い。少なくとも、最低限の身だしなみくらいは整えたほうがよいに決まっている。今思えば当たり前の話である。しかし、僕は自分ひとりではその発想に至ることはできなかった。

 独話、モノログは、自分の考えを深める、いわば「縦」に掘り下げるには有効であろう。すでに自分の想像の内部にあるものを、時間をかけて洗練させてゆく。自分の意見に対して、考えられる限りの懐疑をぶつけて昇華させる。しかし、人間ひとりの想像力には限界があり、独話だけではどうしても独りよがりな思考に陥ってしまう。だからこそ、「モノログを通じてダイアログへ」と掲げ、そこから対話が生まれていけばいいのではないか、そうすることによって自分の認識の幅を「横」に広げつつ、さらに自分のやりたいことを突き詰めることができるのではないか、と考えていた。
 しかしそれは、「自分さえ望めば相手が対話してくれる」という、現実を鑑みない甘えた認識に基づいていたのだと思う。現実には、人間関係があって、互いの相性もあって、時間も空間も限られていて、その上でコミュニケーションが行われる。僕は、無意識のうちにこの過程を無視してしまっていたのだと思う。

 僕は、この文章を書くこと自体が間違いであるような気がしてならない。ひとりで自省すべきことをこういう形で公表したところであまり意味はないだろうし、周囲にいる人たちを無意味に遠ざけてしまうかもしれない。それでも構わない、だなんてことは、もう僕には言えない。それでも僕の考えはまとまりきっていないし、むしろ人間は考えをまとめていない不完全な状態で常に生きていくべきなのかもしれないけれど、いずれにせよ「書く」という行為自体は非難されるべきではないはずだ。だから、このブログはこのブログで書き続けたいと思う。その上で、何を書くべきなのか、そして実生活においてどう行動すべきなのか、改めて考えながら過ごさなければいけない。

 ただ、ひとつだけ述べておきたいことがある。僕はこのブログを仕切り直して始めたとき、自分自身の直感に従ってそうした。不安な気持ちを抱きながらも、確固たる信念を持って、わずかながらではあるが書き続けてきた。その僕の気持ちに嘘はなかったし、その直感は間違っていたのかもしれないけれど、そのときの僕を今の僕がバカにすることはあってはならない、と思う。過去の自分の考えを否定しつつも、その存在は否定してはいけないと強く思う。恥ずべき自分を愛すべきだと思う。