独話的対話

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信仰、往復

 前回のおさらい。
believe666.hatenablog.com
 人間が「節目」を必要以上に大切にしたり(あるいは文化人類学の視点で見れば恐れたり)、あるいは「節」を人工的に作り出したりしてきたのは、世界を「分かりやすく」するため、すなわち世界を特定の方法によって解釈することによって生きやすいものに変えるためである。例えば、元旦に年賀状を書くこと。できることならいつだって手紙を書いて交信していたほうがいいのだろうけれど、多くの人と文通し続けていたら色んな意味で大変だろうから、1年に1度、それも年の頭に書く。年の頭である必要はそれほどないのだが、そのほうが「これからもよろしくお願いします」という気持ちを伝えるのに「分かりやすい」のであろう(年賀状に関してはこれ以外の説明も必要だが)。ちなみに、世界を「理解」することは、恐らく本能的な欲求であり、ナイル川の洪水が定期的に氾濫を起こす、と古代エジプト人が理解したように、そちらのほうが生存に有利なため、そうでないものは淘汰されてきたのではないかと考えている。整理整頓されたものや法則性のあるもの、対称な図形などに惹かれるのもそれだろう。いや、これは本来脳科学的に解明されるべきものであるのだろうが、解明など待ってられないので推論したものである。
 次は、この概念を拡張する。「節目」の役割は、世界の「理解」だ。言い換えると、世界の解釈の意味地図を提供することだ。そもそも、世界は本来的に理解されない。あまりに複雑で、同時に連続的であるため、人間はそれらを区分して、あるいは一面を切り取って「理解」したつもりになっているのだ。例えば、24時間365日で1年、としているが、それは人間が無理やり決めたことであって、世界は24時間365日という単位とともに生まれたわけでもないし、実際に自転と公転のタイミングもずれている。物理学も生物学も歴史学も経済学も、世界のほんの一面でしかないし、それらを統合した世界の見方は不可能に限りなく近い。だからこそ、人間は一定の図式、手法に則って行動する。これを、その図式や手法に対する「信仰」と呼びたい。ある図式や手法に則ること、またその事実自体を肯定すること、それがここでの「信仰」である。これは必ずしも悪いものではなく、生きていく上で必要だが、「信仰」に頼り続けることは、その不完全性ゆえに成長に悪影響を及ぼすと考える。以下、具体例を交えながら説明する。
 「信仰」は世界を理解する大きな補助になる。「信仰」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、宗教であろう。世界宗教でもカルト宗教でも本質は同じで、異なるのは「自分が死ぬまでに裏切られる可能性が高いか」と「悪質なものがあるかないか」くらいだ。いずれもこの世界を特定の図式で(説明できるはずがないのに)説明し、信者はその図式を「信仰」する。すると、自らの行動から迷いが消える。何もかも不確定なはずの無限の可能性を秘めた世界と対峙しても、特定の図式から導き出される答えはひとつ、もしくは有限なので、迷う必要性が小さくなるのだ。すると、自らの意識を行動のみに集中させられるため、自らの行動が間違っているかも、と警戒して意識を分散させているときよりも、より高いパフォーマンスを叩き出せる(と推論する)。その結果、さらに「信仰」は強化され、「これを信仰する私は正しい」という自己肯定感や幸福感に包まれる。これは、構造上は自信と同じである。自信のある人は成功しやすいと言われることもあるが、まさにこの説明が適用できるだろう。さらに、自信の場合は、自分の能力が高くないのに過信してしまい、逆効果になる場合があるというデメリットを孕んでいるが、例えば世界宗教は、その能力はすでにその信者の数が証明している。そもそも「信仰」の対象は揺らぎのある自己ではなく、一定の図式や手法なので、自惚れにより自己が変容しても、「信仰」により図式が変容する、ということはないのだ。まとめると、「理解」を補助する「信仰」によって人間は大きな(または多くの)「成功」を得られる、という一般化が成り立つ。
 ここで問われるべきなのは、そもそも人間は「成功」を追い求めるべきなのか、ということである。もちろんするかしないかなら前者のほうが好ましいだろうが、テンプレートとしてよくある「金持ちだが寂しい人間」というものは好ましくない。「成功」というのは、人間が追い求めるべきもの、としては、少なくとも十分条件は満たさないだろう。では十分条件は何なのか、言い換えると、「成功」は何に集約されるのだろうか。一つの答えとして、「幸福」が挙げられるだろう。「幸福」については、この連続ツイートを見ていただきたい。


 このツイート群の最も重要な部分は、「人生に意味なんて、目的なんてないし、人生は幸福になるためにあるものではない」というところである。幸福になりたければ、何かを「信仰」して、その信仰を強化し続けて生きていけばいい。あるいは、脳に電極を付けて一生ドーパミンを流しながら死んでいけばいい。でもそうではない。絶対にそうではないと思っているから、私はこうして文章を書いている。
 ではどうすればよいのか、幸福なんてクソなのかというと、それも違う。当たり前だ。本来的に求められるべきものでない、というだけであって、得るのがいけないわけでもないし、むしろ得ずに生きていくのは困難である。そして、先に述べたように、人生に目的はないのであって、「成功」を追い求めるべきでもないと考えるので、「信仰」も本来的に求めるものではない。また同様に、「信仰」もそれだけをすべきではないが、しなければ世界の理解が困難になる。ここに生まれるのが、「信仰」の「往復」という概念である。どういうことかというと、一度何らかの図式に則って行動した後、その図式に定住せず、一歩引いた視点で物事を捉えなおしたり、別の図式に乗り換えたりする、ということである。なぜこのような手法を取る必要があるのだろうか。それは、前述したとおり、「信仰」はあくまで物事の一面を切り取った不完全なものだからである。この無限大の世界の全貌を見渡すのには、それこそ無限とも言える視点が必要で、一つの視点から見えることなどほぼないに等しい。一つの「信仰」に留まることは、世界の「理解」を大きく妨げる。
 しかし、「信仰」することとしないこと、もしくは「信仰」の対象を変えることを「往復」することで、様々な視点に気付けたり、またその事実自体を認識できたりする。世界を「分かりやすく」解釈するだけでなく、一度その解釈を離れ、制約を受けずに考えることによって、抽象度の高い、メタ的な考えが生まれることも大いにあるだろう。そうしたときにまた、その枠組みに沿った「信仰」に自らを当てはめ、解釈する。こういった繰り返しによってのみ、人間はその思考を発展させ、より世界の「理解」に近づけるのではないだろうか。もちろん、人生が思考で終わってしまってはもったいないというのも重要な意見であるだろうし、20代後半~30代で人生の方向性を固めるべき、と聞いたことがあるが、十分に思考したならばそれ以降はある程度自らの「信仰」に則って微調整するだけでも構わないと考える。しかし少なくともそれまでは、安易に「信仰」に依存するべきではないし、それ以降でも自らの「信仰」を疑う機会は度々持つべきだろう。
 一つの「信仰」に留まらない、というのは考えてみれば当然のことかもしれないが、これが意外と難しい。「信仰」を離れることは、一時的に世界を「理解」する術を持ち合わせていない状態になることであり、同時に今までその手法を「信仰」していた自己を裏切ることでもある。砕けた言い方をすると、自分の信念を捨てるということだ。誰しも何らかの信念を密かに持っていたり、信念とまでは言わなくとも自分自身の価値観があると思っている。その行為はプライドをひどく傷つけるものだろうし、わざわざそんなことしたくもない、という人は多いだろう。無自覚的に「信仰」から離れられない人だっているだろう。しかし、そこへの「信仰」が存在する限り、これ以上世界を「理解」することはできないし、それ以上広い方向への成長を遂げることはない。

 人はよく、様々な状況で「知らないほうが幸せ」と言う。私もそう思う。でも、別に幸せになるために生きてはいないから。「何のために生きるか」ではなくて「どう生きるか」であり、私はここで述べた生き方が人間の発展につながると思ってるから。だから知りたい。