独話的対話

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ぼちぼち再開します

 あっという間に最終更新から1年が過ぎようとしている。この1年はあまり他者と話す機会もなく、ひとりで考え込むことも多かったが、他者と接することなしにいいアイデアというのは浮かんでこないものだ。その代わり、ではないが、多少の本を読んだ。社会学、教育学、少し頑張って哲学にも手を伸ばしたりした。結局大した量の読書もできず、今となっては後悔も多いのだが、今までの自分の考えを見つめ直すには十分だったと言えるかもしれない。

 

believe666.hatenablog.com

 

 たとえば、私がここで「信仰」と名付けたものは、ニーチェの系譜学的なキリスト教批判に通ずる点がある(もちろんニーチェ哲学よりもはるかに雑駁なものであるのだが)。ここで私は「人生に意味なんて、目的なんてない」「『何のために生きるか』ではなくて『どう生きるか』」などと述べているが、竹田青嗣先生の『ニーチェ入門』の表紙にも以下のような文言が書き連ねられている。

 

 ……ニーチェは答える。世界と歴史の時間にはどんな「意味」も存在しない。それにもかかわらず君は生きねばならず、「なんのために」ではなく「いかに」生きるかを自分自身で選ばなくてはならない。……

 

  あるいはさらにミクロな文脈においては、自己物語論というものがある。浅野智彦先生の『自己への物語論的接近』が非常にわかりやすかったのだが、要するに物語とは時間軸に沿った出来事の選択的構造化であり、自己物語論とは「人々は自分の人生を物語化することによって現実を構成し、同時に可能性や矛盾を隠蔽している」という考え方である。ここでいう現実の構成というのも、私が述べていた「世界の解釈の意味地図」をつくりだして使用することにかなり近いと考えている。

 

 私が考えていたことはすでに過去の哲学者たちや社会学者たちによって考えられてきたことだ、というのは、正直なところ少し誇らしいというか「正解」を引き当てたようで嬉しいのだが、私が言いたいのはそういうことではない。ひとつは、これが「車輪の再発明」にすぎないということ。もうひとつは、それにもかかわらず、私がこうやって自分なりに考えてきたことは、おそらく無駄ではないだろうと私が考えているということ。これは、単に「人生に意味や目的はないのだから、『無駄』という概念自体が成立し得ない」という意味を超えて、こういったことをあれこれと思考することは私自身の「知的トレーニング」にもなっており、かつ私自身のライフワークのモチベーションにもなっている、ということを指している。

 

 と、ここまで書いたところで、ふと「独話的対話」の最初の記事を見返してみた。

 

believe666.hatenablog.com

 

 驚くべきことに、大学1年生の私は既にこんなことを書いていた。「自分が考えてきたことがいかに既に学問づけられ、実践されてきたかを思い知った」と。人間の記憶とは曖昧なものだ、ようやく「車輪の再発明」の問題を乗り越えたかと思っていたら、どうやら過去の私は(明確に言語化していなかったにせよ)それを原動力にこのブログを書き始めたらしい。2年余りたってようやく自分の考えをまともに言語化できるようになったということを、私自身がどの程度成長したと捉えるべきであろうか。なかなかの難題である。