独話的対話

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「大学生活に関するアンケート」実施の経緯と今後について

 

1 前置きとしての日本の大学の現状

 唐突ではあるのだが、この度「大学生活に関するアンケート」というのを実施することにした。

docs.google.com

 ↑できるだけ多くの方のご意見を伺いたいので、神戸大学生以外の方も、卒業生の方も、ぜひご回答ください。

 以前から私が思っていたことであり、また他にも似たことを考えている人が少なくないであろうことであるが、日本の大学とは非常に奇妙な場である。高い金を払い(または少なくない場合で親に払わせ)、勉強・研究をするという名目で入学したはいいものの、勉強に割く時間を最低限に抑え、遊ぶことに多くの時間と金を捧げる。そして、しばしば大学で勉強したこととは関係のない職に就くため、自己を物語化・パッケージ化して売り込む就活市場に乗り込む。採用時に参照されるのは学歴であり、むしろ勉強しかしていなかったような学生は「即戦力」にならないとしてふるい落とされる。
 露悪的に、かつ類型的に言うならば、日本の大学とはこのような場であろう。もちろん、これに当てはまらない学生も多くいるし、こういった現状に問題意識を持つ学生もいるはずだ。さらに、一部こういった例に当てはまりつつも、好きな分野の勉強・研究には積極的に取り組んだり、勉強・研究以外で何らかの素晴らしい成果を上げたりする学生は、神戸大学くらいの大学であればむしろ多いように思える。そもそも「ぐうたらな学生」がいるのは、単にその学生個人がぐうたらであるというよりも、そのような学生の存在を許している大学の構造的問題として捉える方が適切であろう。
 ただし、私はこれらの学生がどうだ、日本の大学はこうだとかを主張するためにこの文章を書いているわけではない。これはあくまで前置きであり、本題には直接には関わらない(しかし間接的には関わる)。

2 「無能」な大学教務

 さて、本題のひとつとして、「大学教務」(≒大学職員)について考えてみたい。Twitterで検索をするとよくわかるが、特定の大学に限らず、教務は「クソ」だとか「無能」だとかと罵られる対象となっている。これは、ひょっとすると金を払う「客側」の学生がクレームをつけているだけなのかもしれないが、おそらくそれ以外にも要因は考えられる。わかりやすいスライドがあるので、引用したい。

図1 職員の思考*1

 

 つまり、大学職員は官僚制に基づいて働いているため、「三遊間のゴロ」を拾うインセンティブがあまり存在しないということであろう。詳しく述べると、仮に仕事に対する「クレーム」が来たとしても、企業であればそれを改善することにより売り上げや企業の魅力が向上したり、その成果が個人に帰せられて昇進・昇給につながったりするのに対して、大学職員は学生の要望ひとつひとつに応えることによるメリットが薄く、むしろ仕事が増えるだけであるという構造的問題が存在するために、大学職員は言われた仕事を行っているにもかかわらず「クソ」だとか「無能」だとかの評を受けてしまうと考えられる、ということである。これは、前述した「ぐうたらな学生」が構造的にぐうたらであるのと同型の問題であると言えよう。
 その意味において、大学教務をいくら批判しても暖簾に腕押しであり、われわれの切なるつぶやきは単なる愚痴になりかねない。いや、愚痴でいい、愚痴として言っているんだという人も多いであろう。その点については、「われわれは『政治』をすべきなのではないか」という形で、後に提起したい。

3 大学改革における大学職員

 ここで視点を移して、大学全体について検討したい。近年、さまざまな文脈で大学改革の必要性が叫ばれている。例えば、2016年に改正された学校教育法施行規則に基づき、卒業認定・学位授与の方針(=ディプロマ・ポリシー)、教育課程編成・実施の方針(=カリキュラム・ポリシー)、入学者受入れの方針(=アドミッション・ポリシー)の一貫的な策定が求められるようになったり*2中央教育審議会答申の「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン」において提示された国立大学改革方針として、イノベーションを創出する知と人材の集積拠点としての役割や地方創生に貢献する役割などが挙げられたり*3、2014年にも中央教育審議会により、大学のガバナンス改革の推進について、学長のリーダーシップの確立などが提言されたりしている*4
 しかし、これらの大学改革は、決して学長のみのリーダーシップや、執行部・大学の制度的改革のみによって達成されるものではないはずだ。例えば教育学者の大場淳は、大学のガバナンス改革についてのレビュー論文において、中央集権的なリーダーシップよりも双方向的なリーダーシップや組織文化の変革が重要であると述べている*5。大学職員の大学改革における役割はすでに政策でも一定程度重視されており、人材の流動化や事務職員の高度化による教職協働、SD(=Stuff Development)と呼ばれる職員研修などの推進が掲げられている*6。SDの定義については「共通理解ができているとは認め難いが、SDが議論される場合、従来から体系的に行われている事務職員の事務能力向上のための研修等を念頭に置いたものではなく、大学経営改善のための専門性の向上という観点からであることが殆どである」*7という。具体的な研修内容については様々なものがあるが、本稿においては割愛する。
 SDも含めた大学職員の現状については、ややデータが古いが中央教育審議会大学分科会大学教育部会第44回の資料*8に詳しい。SDの普及率は2014年に87.7%と高く、対象別にみても事務職員が87.6%である一方で、その内容については「戦略的な企画能力の向上を目的とするもの」を行っている大学は25.9%、「マネジメント能力の向上を目的とするもの」は34.6%と、基礎的な内容に比して専門的な内容についてのSDがさほど普及していないことがうかがえる。また、SDに参加した職員が全体の半数に満たない大学が全体の3割を超えているなどといった問題も残っている。
 このように、大学職員を巻き込んだ形での大学改革は途上にあり、今後も(われわれのあずかり知らぬところで)進んでいくと考えられる。しかし前述したように、大学職員にはもともと業務改善のインセンティブがあまりない。そのため、今後実際に業務が改善していくのかどうかは不透明である。また、神戸大学は大学職員に対するSDの内容について公表しておらず、またSDを行っているかどうかも調べた限りは確認できなかったことは付記しておきたい*9

4 悩む学生・愚痴る学生

 混み入った話ばかりをしていても疲れるので、翻ってわれわれと大学の関わりについて考えてみたい。われわれの身分は学生であるが、われわれは大学の中だけで生活しているわけではない。大学に属しているとはいえ活動そのものはしばしば大学の外部で行われる部活動やサークルであったり、重要な収入源であり社会経験ともなりうるアルバイトであったり、そのような固定的な場に限らずとも、われわれは友人や恋人と遊んだり、余暇を活かしてひとりでアウトドア・インドアの趣味を楽しんだりしている。その大学に属しているのも、せいぜい4年から6年といったところであろう。
 そして、われわれは大学に対して、あるいは大学生活に対して、多かれ少なかれ何らかの悩み・困難・不満・要望を持ち合わせているものだろう(実際にどんな悩み・困難・不満・要望を持っているか(あるいは持っていたか)、想起しながら読んでいただきたい)。しかし、それらが実際に解決されたという例を私はあまり知らない。それはおそらく、われわれは大学や大学生活に対する不満を持ちながらも、ずっと大学の中で活動するのではなく、大学の外部で過ごす場がある場合に、それらを抑え込んだり無視したりと、自己完結させてしまうためではないだろうか。あるいは、せいぜい大学には4年から6年しか属していないのだから、仕方ないと思って我慢する選択肢をとるためではないだろうか。
 そうしてわれわれは、それなりに悩んだり、それなりに愚痴ったりしながら、大学生活を終え、無事に社会へとはばたく。それでいいという人も多いだろう。私自身、それでいいじゃないかと思うこともある。だが、ここであえて、本当にそれでいいのか、とわれわれ自身に問いたい。学生の悩み・困難・不満・要望が、一時的で自己完結的なものとして経験され、「そういうものだ」という言葉で片付けられ、将来世代にわたって保存される。本当にそれでいいのだろうか。

5 われわれは「政治」をすべきなのではないか

 政治の話題は、ひどく厄介である。その原因の一側面として、扱われている問題が生活から遊離していることや、専門的知識を用いて考えられるべきであることなどが挙げられるだろう。どういった経済政策がよいのか、原発は再稼働すべきなのか、ましてやどの党に投票すべきなのか、これらの問題は専門的かつ複合的であるがゆえに、あまりにも難解で実感が欠けており、それゆえ何らかのイデオロギーに基づいて判断を下すことになってしまう。その時点で、政治に関する議論はイデオロギー・バトルに堕してしまう。
 しかし、政治とは本当に、このように厄介で攻撃的な、避けられるべきものであるのだろうか。いや、あるべきなのだろうか、と問うべきかもしれない。日本が代議制民主主義国家である以上、この種の政治から逃れることは不可能なのかもしれないが、同時に別の種の政治を行うこともできるのではないだろうか。私自身が政治について勉強不足ではあるのだが、現時点で私が可能性を見出しているものとして、政治の規模のスケールダウンについて検討したい。つまり、さほど難解ではなく理解可能で、かつ生活に接したものとしての政治である。地方・地域における政治がそれに近いだろうか。生活に接しているということは、それだけ利害の問題を強く引き起こすことにはなってしまうだろうが、それらの問題が包括的に理解可能である限り、対話によって何らかの折衷案を見出すことは可能に思える。
 さて、話を大学に戻したい。本稿の2でみたように、大学職員には学生の要望に応えるインセンティブがあまりない。さらに3では大学改革の潮流について述べたが、必ずしもそれによって大学が改革されていくかは不透明であり、少なくともこれが「学生の過ごしやすい大学」が念頭に置かれた改革とは考えづらい。あとは、われわれ学生が、われわれの悩み・困難・不満・要望を自己完結的なものにしてしまうか、より開かれたものにしていくか、その問題ではないだろうか。私はここに、第2波フェミニズムの、「個人的なことは政治的なこと」(=The Personal is Political)というスローガンを想起する。われわれの個人的問題に見えたものは、大学の、社会の構造的問題に基づいており、それゆえ政治的に解決可能である。
 それでは、われわれはどのような政治をすべきなのだろうか、あるいはどのような政治が可能なのであろうか。かつての日本で起こった大学闘争のように、大きな政治的目標の達成のため、暴力という緊急的手段に訴えることは、もはや今日の日本においては功を成さないであろう。しかしそのような手段をとらなくとも、われわれの悩み・困難・不満・要望を、処理可能なスケールにおいて、しかるべきところに伝え、しかるべき処置をとってもらう、そのようなことは一見可能に見える。それを阻んでいるのは、われわれの悩み・困難・不満・要望を個人的問題に終わらせてしまっている、われわれ自身の行動(≒意識)と、それがまさに「個人」単位のものにとどまってしまい、集団としての悩み・困難・不満・要望として主張されておらず、ゆえに受容されていないということであろう。ここに、「個人」の問題を取りまとめる――たとえるならば労働組合のような――集団の必要性が浮かび上がってくる。

6 今後についてと、われわれが知っておくべきこと

 その集団がないのならば作ればいい、というあまりにも安易ではあるが誰もやっていなさそうなことを、やってみようと思う。本アンケートの結果次第ではあるが、なんらかのサークルかコミュニティを立ち上げ、大学への提言・交渉内容を精査し、署名等を行い、実際に提言・交渉する、とおおむねそのようなことを考えている。しかし、具体的にどうすればよいのかについては不明な点が多い。たとえば、「履修制度がわかりにくい」と感じていたとしても、履修の取り決めには法律も関与しているだろうし、それ以前の歴史があって現在に至っているわけなのだから、そう簡単に変わるわけではない。あるいは「コロナ禍前に営業していた食堂を再開させてほしい」と思っても、これは大学ではなく大学生協の管轄であろうし、またどのように伝えるのか(食堂に目安箱のようなものがあるが、そこに投げ込むだけで伝わるのか?)という問題もある。
 この問題には、大学がどういう組織であり、どのような原理に基づいて動いているのかについて、(もちろん私も含め)われわれが無知である、ということが関わっているように思われる。教員と職員の関係性や、執行部が何をしているのかや、予算がどのように配分されているのかや、学生の要望がどのように受け入れられているのかや。当然、われわれはそれらについて知らなくても、大きな不自由もなく大学生活を送り、卒業することができる。大学の動力は学生ではなく、職員や教員や、あるいは国でしかないのであろう。
 しかし、ある大学について、その大学を体現するのは、教員や職員に劣らず、学生もそうである(「東大」と世間で言われるときに、「東大生」が真っ先に思い浮かべられるように)。学生もその大学を、ある意味において作り上げているのである。そうであるのならば、義務という言葉を用いるつもりはないが、少なくとも学生には大学に関わる権利があるし、同時にその大学に所属するもののひとりとして、そしてその大学を体現するもののひとりとして、大学について知り、大学に関わろうとする、何らかの責任の一端のようなもの――責任という語も安易に用いるべきではないのかもしれないが――があるのではないだろうか。
 私も研究をはじめ、やらねばならないことはたくさんあるし、正直こんな面倒なことをするのも腰が重いのだが、何もやらずにグダグダと愚痴を言ったり、あるいは言っている人を見たりするのも、なんとなく気分が悪い。どちらかというと私のモチベーションはそこにある。モチベーションがいかなるものであれ、「私」の持つ問題意識が、「われわれ」の問題意識になればいいな、と思う。

*1:中井俊樹・宮林常崇,2016,「SPODフォーラム2016 大学組織を理解する 配布用抜粋版」,(2022年10月12日取得,https://www.spod.ehime-u.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2016/09/2401D.pdf).

*2:文部科学省,「『三つの方針』の一体的な策定・公表について」,(2022年10月13日取得,https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2017/10/24/1397732_001.pdf).

*3:文部科学省,「国立大学改革方針(概要)」,(2022年10月13日取得,https://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/houjin/__icsFiles/afieldfile/2019/06/18/1418126_01.pdf).

*4:中央教育審議会大学分科会,2014,「大学のガバナンス改革の推進について(審議まとめ)」,(2022年10月13日取得,https://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2014/02/18/1344349_3_1.pdfhttps://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2014/02/18/1344349_4_1.pdf).

*5:大場淳,2011,「大学のガバナンス改革――組織文化とリーダーシップを巡って」『名古屋高等教育研究』11: 253-72.

*6:同上

*7:大場淳,2007,「第4部 FD/SD 第3章 SD制度化の現状と課題」広島大学高等教育研究開発センター編,『21世紀型高等教育システム構築と質的保証 FD・SD・教育班の報告 COE研究シリーズ 26』231-51.

*8:中央教育審議会大学分科会大学教育部会,2016,「資料1-2 大学の事務職員等の在り方について(参考資料)」,(2022年10月14日取得,https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/015/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2017/01/06/1380781_02.pdf).

*9:たとえば、東京大学は事業計画として教職員向けにSDを行うことを示していたり、京都大学大阪大学はそれぞれが加盟する「大学コンソーシアム京都」・「大学コンソーシアム大阪」においてSDを行っているようである。私立大学であれば、たとえば青山学院大学はSDについて方針・計画・結果を詳細に提示している。また、「四国地区大学教職員能力開発ネットワーク」(SPOD)など、SDに関するフォーラムやイベントなどを積極的に開催している団体もある。