独話的対話

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小山田圭吾、のぶみ、小林賢太郎の東京2020オリンピックへの関与について

 ここのところ議論が錯綜している、小山田圭吾、のぶみ、小林賢太郎(敬称略)各人の東京2020オリンピックへの関与について、①時代背景、②問題のフィクション/ノンフィクション性、営利性③問題についての当人の態度、④任命についての問題に分け、私なりに議論すべき点を整理した上で、さらにこれらが問題として立ち上がってくる根底に何があるのかについて検討したい。また、これらを総合的に見て、各人が批判もしくは非難されるべきであったか、本オリンピックに関与すべきであったかについては、ここでは言及しない

 

小山田圭吾

news.yahoo.co.jp

①時代背景

 いじめ自体に関しては80年代のことであるが、もちろん、小山田自身が語ったようなことを本当に行っていたのだとすると時代どうこうの話ではない。しかし、そもそもこのいじめを「許す」にせよ「許さない」にせよ、その主体はいじめの被害者以外にありえない(ただし、被害者が「許す」と言ってしまえばいじめの事実に関してすべての問題がなくなるのか、というと、それも誤りではないかと考える。なぜなら、その人物が「倫理観」に欠けるのではないか、また、その「罪」自体は消えないのではないか、という問題が生じうるためである。これについては後述する)。

 そのため、基本的にはいじめ自体ではなく、『月刊カドカワ』(1991年9月)、『ロッキング・オン・ジャパン』(1994年1月)、『クイック・ジャパン』(1995年8月)(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66168より)での「いじめ告白」が問題であると見なされるべきであろう。これについては同記事が詳しい(ただし、私はこの記事の倫理基準に関する欧米中心主義には賛同しない)。このいじめ告白の問題についてよく言われるのが、「90年代の渋谷系の、露悪的なものを美とする風潮」である。当時の記事への反響がどのようなものであったかは知らないが、それによって音楽家生命が断たれているわけではないことを鑑みても、当時の日本社会の倫理基準に照らし合わせて、少しは逸脱していたものの大きく逸脱していたわけではなかった、と考えるのが妥当であろう。つまり、小山田のいじめ告白は、倫理基準が「低い」のみならず、さらにその倫理基準を逸脱することが美である、という二重のコンテクストの中で起こったことなのである。当然、問題は「現代の倫理基準によって過去のいじめ告白を裁いていいのか」という点に行き着く。これについて、詳しくは後述する。

②問題のフィクション/ノンフィクション性、営利性

 小山田のいじめ自体は、当人が述べる通り実際に起こったことであると考えられるし、いじめ告白もインタビュー形式で記事に書かれている。いじめ・いじめ告白がノンフィクションであったということは、それが当人の主義・主張であったことを意味すると言えそうだ。少なくとも、その題材で営業を行っていたということは事実であり、真剣に受け止めなければならない。

③問題についての当人の態度

 私の知る限り、小山田のいじめ告白のエピソードは比較的有名であり、私の記憶が正しければ、今回炎上する以前からWikipediaに掲載されるほどであった。2011年にNHKの教育番組「デザインあ」の音楽を担当することになったの際も、NHKに問い合わせがあったそうだが、そのときは「所属事務所から本人が反省して後悔していると聞いて、当時は受け入れた」(https://news.yahoo.co.jp/articles/97f99d1a98a2a8f089a5241297daf82280fbd6f6より)そうだ。しかし、彼がいじめ・いじめ告白について公の場で謝罪したことはこれまでになかった(.com/corneliusjap15968059580293121?s=20https://twitter.com/corneliusjapan/status/1415968059580293121?s=20https://twitter.com/corneliusjapan/status/1415968059580293121?s=20より)。そして今回の件を経て、Twitterでいじめ・いじめ告白についての謝罪を行った。

 10年前の「反省して後悔している」という発言が事実であるか、またそれが本心からのものであるかどうかについては、確認が困難なこともあり、検討する必要性は薄いと考えられる。問題はそれよりもむしろ、特定の雑誌でのインタビューとはいえ、現代社会の倫理基準に明らかにそぐわない3度に渡る発言について、これまで一度も説明・謝罪したことがなかったことであろう。ただし、炎上する前に謝罪することは、炎上してから謝罪することと比較すれば誠意のある行為だと言えそうだが、だからといって私たちは普通、それを褒め称えることはないし、むしろその人には(今回のように)社会的制裁が与えられるかもしれない。炎上する前の謝罪というのは、それほど難しいものであるということには留意すべきであろう。

④任命についての問題

 前述したとおり、小山田のいじめ・いじめ告白は比較的有名な話であり、組織委員会も把握すべきであったと考える。本当にWikipediaに掲載される程度のものであったのならばなおさらである。

 組織委員会は今回のように炎上することを想定に入れるべきであり、炎上が起こってしまった以上、任命責任が生じる。これについて、組織委員会武藤敏郎事務総長は「最終的な任命責任は我々にあることは間違いありません。ありませんが、我々が一人ひとりを選んだわけではありません」、橋本聖子会長は「やはり、責任は私にあります」と述べている(https://news.yahoo.co.jp/articles/865d710e2d2d8288254d23d8305ebb5a1c56c957より)。コロナ禍のために他の対応に追われ、人選チェックまで手が回らなかったためなのか、もともとチェックをする予定がなかったのかは不明であるが、チェックも含めた人選・任命のシステムは再検討されるべきであろう。

 

のぶみ

news.yahoo.co.jp

①時代背景

 のぶみを巡っては、過去の言動がこれまでにもたびたび指摘されており、そのすべてを扱うのは難しいため、代表的なものとして「母親に自己犠牲を求めるような歌詞の作詞(以下歌詞問題)」と「Instagramでの医学デマの投稿(以下デマ問題)(現在は削除済み)」を扱う。前者は2018年にHuluの番組内で用いられた楽曲のものであり(https://cyoppaya.com/nobumi/より)、後者は2021年2月上旬の投稿のものである(https://woman.excite.co.jp/article/lifestyle/rid_Myjitsu_261547/より)らしい。いずれも近年のものであり、時代背景について考慮する必要性は小さい。

②問題のフィクション/ノンフィクション性、営利性

 歌詞問題については、歌詞というフィクション上でのものではあるが、そもそも歌詞はフィクションの中でも作詞者の主張と何らかの形で結び付けられやすいものであること(これについては議論が必要かもしれない)、歌詞の内容がそれまでののぶみの主張と同じ方向のものであること、楽曲が子ども向け番組で用いられたことなどから、通常と同じ意味でのフィクション性を認めることは難しいかもしれない。しかし、フィクションではないとしても、自分の考えを歌詞で表現することそれ自体は批判されるべきではない。ただし、この作詞が営業として行われたものであろうことにも着目する必要はある。

 デマ問題については、創作物としての投稿ではないため、ノンフィクションとして扱うべきであろう。実際にこのデマを信じ、間違った育児を行ったり、育児の負担が増えたりした親の存在の可能性を考えると、決して無害な主張とは言えない。しかし、医学的に誤りであるとされていることを発言する自由ももちろんあるし、またこれは営業には当たらない。そもそも医学というのは、自然科学の枠組みで捉えればいまだ一種の「仮説」に過ぎないため、その意味においてのぶみの投稿内容を誤りであると断定することは原理的に困難である。ただ、今回の件を離れて医学デマ全体を俯瞰すると、話題となっている新型コロナウイルスに対するワクチンへのデマなど、かなり有害なものも存在する。その一端を担っているという意味において、のぶみの投稿をより悪質なものであると見なすことは可能であるかもしれない。

③問題についての当人の態度

 歌詞問題についてはTwitterで謝罪した(https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201802080000484.html)ようであるが、デマ問題については投稿を削除し、謝罪を行っていない。これらの言動を一連のものだと捉えると、彼は自らの言動についてまったく反省していないように見える。また、のぶみはこれら以外にも過去に多くの言動を指摘されているが、私の知る限りそのほとんどについて説明や謝罪を行っていない

 今回の件について、公式ホームページに「のぶみさんご本人の意志により出演は辞退されました」との掲載があるが(https://nippon-fes-one.tokyo2020.org/performer/より)、今のところ本人からの説明や謝罪はない。

④任命についての問題

 のぶみは普段からこういったデマや過激な発言を行っているため、それらを知らずに組織委員会が採用した、というには無理があると考えられる。当然、小山田と同様に任命責任は生じるだろう。採用経緯に関しては、のぶみの主張が親学と近しく、政治と親学に関係性がある、という指摘もあるようだが、この指摘の妥当性については言及しない。

 

小林賢太郎

news.yahoo.co.jpte

①時代背景

 このコントが行われた90年代は、倫理基準が現代社会のものより緩かったと考えられるため、当時そのネタをやることはさほど問題のあることではなかっただろう。また、限られた観客に向けられたものであったという点も忘れてはならない。ただし、不謹慎と捉えられかねないネタを行ったことは事実であり、特に、ホロコーストについて深刻に考えているような観客がいた可能性を考慮していない点については、小林に落ち度があったようにも思える。

②問題のフィクション/ノンフィクション性、営利性

 今回の問題はコントの中に含まれていたものであり、営利性を持つとはいえ、あくまでフィクションである。もちろん小林はホロコーストを肯定したことにはならないし、このネタだけを見ても普段の彼の言動を見ても(私は彼を詳しく知らないが少なくともインターネット上の情報からすると)、彼がホロコーストを肯定しているとは言い難い。そもそも、ネタの中では「放送できるか!」と怒られたという設定になっている。

 しかし、フィクションであろうとこのコントを知って悲しんだり憤ったりする人がいることも容易に想像がつく。このことを検討するにあたって、他のフィクションにおける差別的表現の扱いを参考にしたい。たとえば、手塚治虫の作品には差別的な表現に関する断り書きが載っていることが多い。作品発表当時の時代背景、作者の意図(≒差別的意図はないということ)、作者が故人であることなどを理由として、作品の修正が行われずに出版されているケースが多く、またこの処置は妥当であると考えられることが多い。

 これに対して今回の件が炎上しているのは、やはりホロコーストというテーマゆえ、さらに言うならば、それが笑いに用いられたという点においてであろう。ホロコーストは、現代の欧米の倫理基準においては、もう二度と繰り返してはならない過ちとして、少なくとも日本人からすると過剰なまでに厳しく取り締まられている。とはいえ、いかなるフィクションにおいてもホロコーストを扱ってはならない、というわけではないはずである。どういったものであれば認められ、どういったものがグレーゾーンに当てはまるのか、といった現在の倫理基準については私は詳しくないが、それを何らかの形で明記したり、またそれについて議論することは重要であろう(既にそういったものはあるのかもしれないが)。特にホロコーストについては、国際的な議論の場も必要となるはずである。

 そして問題は、今回の笑いが認められない類のものであるべきなのか、という点であろう。前述したように、今回の笑いはホロコーストの被害者を嘲笑うものではなく、「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」という語の突飛さ、ミスマッチさなどに対するものであろう。ホロコーストを肯定しているわけでも、ホロコーストについて笑っているわけでもなく、またホロコーストについて深刻に考えている人に向けたものでもないのだが、それでも認められないのか、認められないとするならばなぜなのか(たとえば、ヒトラーを滑稽に描いた映画はあるのではないか)、どのような笑いであればどの程度認められるのか――、議論すべき話題は多くあるように思われる。これは、ホロコーストというテーマがいかに重いものであるかを反映していると考えられる。

③問題についての当人の態度

 今回の炎上を受けて、組織委員会は小林を即座に解任した。また、小林は謝罪を表明している(https://news.yahoo.co.jp/articles/1b50eab9f3a207b87364a59f6e5cb610a6a54f0f)。これ以前に小林が過去のネタについて公の場で謝罪を表明したかどうかは不明であるが、2000年代以降に「もう人を傷つける笑いはしない」という旨の発言をしていた、という指摘がある(ただし真偽は不明である)。

④任命についての問題

 私は詳しくないのだが、初期のラーメンズはいわゆる「不謹慎ネタ」をすることがたびたびあったらしい。それを組織委員会が認知していたかどうかは不明であるが、今回の特定のコントを把握していなかったために採用・任命した、という主張が成り立つかは怪しい。やはり同様に任命責任は生じるであろう。

 

倫理観(人権感覚)

 今回の件について、多くの記事やツイートなどで「倫理観」、「人権感覚」(以下では2つの語を同様の意味であるとして「倫理観」と呼称する)という言葉が用いられていた。つまり、彼らは倫理観が欠如した行動をとった過去ないしは現在があり(、さらに過去がそうであったために現在もそれらを欠いているという憶測があり、)それゆえオリンピックという平和の祭典に関与すべきではない、という考えである。しかし、私はこのような考えに違和感を覚える。そもそも倫理観とは、いったい何を指しているものであるのか、ということである。

 素朴に考えると、倫理観があるということは「倫理や人権に関して、適切な考え方を持っている」ということのように思われる。この「適切さ」については後述するが、まずは「持っている」という基準の曖昧さに着目したい。つまり、「持っている」かどうかは心の中の話であり、外的に観察不可能であるため、実際に彼らの内面に倫理観があるかどうかに言及することはナンセンスなのではないか、ということである。彼らに倫理観が欠如していると指摘することは、それが彼らの心の中を読み取った上での指摘であるということを意味しかねない。

 当然、そのような帰結は奇妙であるため、私たちが「ある人は倫理観を持っている」と言うときに意味していることは、その人が倫理観を持っているようなふるまいをしていると私たちは考えている、ということであろう。だがそれに沿って考えると、今度は「ふるまいを改定することによって倫理観を改定することができる」という考えに到達してしまう。卑近な例を挙げると、「実際に反省していなくても、謝ったり反省したふりをしたりすれば倫理観が向上する」ということである。ある人が倫理観を持っていないような行動を起こし、その後それについて謝罪したとき、私たちはその謝罪が、彼の倫理観がどれほど真なるものであるのかを見極めることができるのであろうか。むしろ私たちは、「そんなひどいことをやった人物が今さら謝罪して、改心するわけがないだろう」と考えたりしてしまいがちではないだろうか。あるいはその逆かもしれないが、いずれにせよ、ある人の倫理観を正しく判断することは原理的に不可能である。

 ではどう考えればいいのかというと、その人の「現在の心の状態」について言及することを諦め、「過去の行為それ自体」(これを「罪」と呼称し、詳しくは後述する)に言及するほかないであろう。

 

現代社会における倫理基準の妥当性

 現代日本社会には、以下のようないくつもの倫理基準がある。「人種・民族などによる差別はいけないことだ」、「男女は平等に扱われるべきだ」、「表現の自由は基本的に守られるべきだ」……。もちろんこれらは一様ではなく、現代日本社会の内部にある特定の集団においては男尊女卑が当然であるかもしれないし、その逆もありうる。グレーゾーンも多く存在する(まさに表現に自由については過去にも多くの議論がなされてきた)。また、現代日本社会の倫理基準は、海外の、主に先進的な欧米の倫理基準と肩を並べるように(並べることはできていないのかもしれないが)制定されている。これについても、国や地域によってどの基準が重視されるのかが異なることがある。

 さらに、過去にも倫理基準というものは存在した。その社会においてそれが倫理的な判断のものさしとなっていれば、現代のように整備されていなくとも、それを倫理基準と呼ぶことができる。かつてから他人に不用意な危害を加えることは悪とされただろうし、そういった基準は倫理という言葉が用いられる前、太古から存在したはずである。そして、倫理基準は過去から変化し、現在の形になった。当然、これから先も基準は変化しうる。

 つまり、倫理基準は空間/時間に依存した、相対的なものである。現代社会に生きているからこそ、現代社会の倫理基準が当たり前に思えるが、つい25年前まではアパルトヘイトが行われていたし、現代でもインドのカースト制など、現代社会の倫理基準からすれば奴隷制としか思えないような事態がまかり通っている。こうなってくると、倫理基準そのものの妥当性が問題として立ち上がってくる。現代社会における倫理基準は、現代社会において妥当性を持つのであって、全世界どこでも、また過去にも未来にもそれが適用できるとは限らない。異なった倫理基準に基づいた過去のいじめ告白を、特定の観客に向けて行われたコントでの差別的表現を現代社会の倫理基準によって裁くことが適切であるかどうかには議論の余地がある。たとえば、ユダヤ人差別の発言が行われていたのが90年代ではなく戦前であったならば、問題は起こらなかったのではないだろうか。もしかするとこれはナンセンスな仮定なのかもしれないが、このように状況を操作して、どのような状況であれば問題が生じうるのか、また問題として扱うべきなのかを検討することは重要であろう。

 さらに付け加えておくと、倫理基準は必ずしも制限する方向に変化するとは限らない。たとえば、表現の自由が大きく認められ、フィクションであれば何を表現しても構わない、という未来の社会を想像することができるかもしれない。そのとき、罰を受けた者は補償を受けることができるのだろうか。過去の倫理基準を現在に適用することが可能であるのならば、過去に罰を受けた者を「許す」ことができるかもしれないし、「許す」べきであるかもしれない。また、このときの「許す」が具体的にどのような処置であるのかも考えなければならないであろう。

 

責任の取り方

 大きな問題が起こってしまったとき、謝れば済むのか、辞任すれば済むのか、というのは、この件に限られない普遍的な問題であろう。そのため多くを割愛するが、2点だけ言及したい。ひとつは、それを誰のために、何のために行っているのか、という点である。被害を被った人に対してなのか、日本国民に対してなのか、全世界の人間に対してなのか。そのための手段としての謝罪や辞任として捉えるべきであると考えているが、三者の辞任・解任は、問題をできるだけ遠ざけよう、忘れさせようという目的の下で行われたようにも見える(少なくとも、問題それ自体に向き合おうとする姿勢は見られない)。

 もうひとつは、一度犯した罪は二度と消えないのか、という点である。ここで言う「罪」とは、誰かに被害を与えたということではなく、倫理にもとる行為を行ったことそれ自体、より内在的な悪のことを指す。上述したように、過去の行いについて反省したふりだけしていることもあれば、真摯にそれを受け止めて変わろうとしている、または実際に変わっていることもあるだろう。その如何にかかわらず、またその罪の大きさにかかわらず、罪とは消えないものなのだろうか。たしかに、たとえば日本の戦争責任は、日本国家が存続する限り消えないかもしれないし、それに関わった一部の人々もそうかもしれない。しかし、あらゆる罪が消えない世界、というのが望ましい世界であるのか、と問われると、直観的に反対したくなる人は多いのではないだろうか。もし罪が場合によっては消えうるのだとしたら、過去に犯した罪がもはや批判・非難されるべきではないと言えるケースが存在するということである。今回の件、特に小山田と小林がそのケースに当てはまるのかについてはさらなる議論を必要とするであろう。

 

平和の祭典としてのオリンピックそのもの

 ここまで3者の過去および現在の行為について検討したが、そもそも彼らが今回炎上したのは、「平和の祭典」という理想を掲げるオリンピックに関与しようとしたためであろう。しかし、そもそも平和の祭典としてのオリンピック自体が破綻しているとすれば、大部分の、少なくとも一部の問題は存在しなくなるはずである。つまり、根本的な問題はオリンピックに内在しているのであって、ここまでの議論はすべて周辺的なものに過ぎないのではないか、ということである。

 この話題については『反東京オリンピック宣言』(小笠原博毅・山本敦久編、2016、航思社 http://www.koshisha.co.jp/pub/item/%E3%80%8E%E5%8F%8D%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E5%AE%A3%E8%A8%80%E3%80%8F)などが詳しい(なお、本書はコロナ禍前に出版されたものである)。ここでは詳細は割愛するが、クーベルタンの設立意図を抜きにしても、競技設備の建設に伴う物価の高騰で国民が苦しんだり、ホームレスの排除が行われたり、また開催国の決定から競技の実施に至るまでナショナリズムがむき出しにされたりするさまを、本当に平和と呼べるのかどうかは、私たちがこれから真剣に考えていかなければならないだろう。

 

総括

 根本的な問題としてのオリンピックについて述べたとはいえ、それ以前に述べた周辺的な問題も、少なくとも根本的な問題が解決できない限りは依然として問題ではある。そして、オリンピックはナショナリズムと緊密に結びついているため、その解体はナショナリズムの解体ほどではないとはいえ、容易ではない。残念ながら、しばらくは(あるいは事実上永遠に)これらの周辺的な問題にその場しのぎで対処するしかないようにも思われる。

 また、その周辺的な問題を考える際、現在の制度や規範が「どうであるのか」と「どうあるべきか」を切り分けて考えることは非常に重要であろう。

 

私の狭い見識に基づいた文章であるため、誤りである情報、論理的に矛盾している点、検討すべきであるが未検討である点などがあるかもしれません。ご意見・ご感想をお聞かせいただけると幸いです。