独話的対話

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言語性・非言語性コミュニケーション

僕は、教育に非常に関心があるものの、子ども、特に小学校低学年が苦手だった。というか、むしろ嫌っていた。たぶん、きちんと理屈が通じないからイヤなのだろう。こうこうだからこうしてね、といっても分かってくれない、というのは、僕にとっては大きなストレスだ。それを思うと、論理の重要性が浮き上がってくるのだが、それはまた別の話。

 

先日、留学で初の海外であるインドネシアに行ってきたのだが、現地人と直接言語コミュニケーションが取れない中で気付いたことがあった。

僕の行ったトンケトンケ村は(他の村でも同様だと思われるが)、10歳ぐらいまでの子どもがたくさんいた。そもそもどこまでが村なのか分からないので、どのくらい住んでいるのかも分からないが、村を歩けば周りに10人くらいワッと集まってくる。しかもめちゃくちゃ積極的で、僕が理解できないのをお構いなしに口々に喋りかけてくる。

初めにたくさんの子どもを目にしたときは先が思いやられたが、村に滞在して数日、僕はすっかり子どもたちと馴染んでいた。何と言っているのかは分からないけれど、喋りかけられたことに対してウンウンと頷いたり、一緒にサッカーしたり、自撮りしたり(子どもたちのスマホ保有率は結構高い)、気付けば子どもたちの輪に入って楽しんでいた。

あれ? 僕の子ども嫌いはどこに行ったのだろう?

 

初めに述べた通り、僕は言葉を使ってコミュニケーションを取ることが上手くできないから、「子ども嫌い」なのだ。しかし、トンケトンケ村の子どもとは、そもそも言語を介さずにコミュニケーションを取ろうとした。例えば、子どもの表情やしぐさをよく見たり、一緒にサッカーしたり。はっきりとしたコミュニケーションは取れないけれど、確かにそこには意識が介在していた。そしてそこでは、相手に何かを伝えるというより、相手から何かを読み取る、汲み取るといった行為に重点が置かれている。

言語性のコミュニケーションが他者に物事を伝えるのに長けているのに対して、非言語性コミュニケーションは逆の方向に向いていると言えるかもしれない。

僕は今回、言葉が通じないから仕方なく、言葉以外でコミュニケーションを取ろうとした。しかし、その非言語性コミュニケーションというのは、やや不便である場合も多いが、決して言語性コミュニケーションに劣るものではなく、違った特徴を持つ別のコミュニケーション形態であるということに気付けた。特に、サッカーをしたり、音楽をしたり、みんながひとつのことを楽しんで、懸命に取り組むとき、そこに生まれるコミュニケーションは、言語では再現不可能なのではないだろうか。あくまで仮説的な話であり、めちゃくちゃ抽象的な話になってしまうけど。

 

ついでのようだが、僕の子ども嫌いも解消の兆しが見えた。よかったよかった。